金曜日

140214

1999-2000

このぐらいは、自分のとっては折れ線グラフでいうとかなり下がり目の時期だ。年齢にして19-20なのだが、いい思い出があまりない。定期的にライブへ行くようになり、1000travels of jawaharlalやボウフラのドラマーだった中園くんとの出会いやimomushi records会長であるユタカ氏からバンドの誘いを受けた時期だったが、最初のころのはどちらかというと大学へ行ってしまい、なじめない環境で苦悩していた。同時にSNAREKILLSのバブルを誘ってバンド組んだが当時の自分の性格(今もかも)が悪かったのか、2回ライブの後にバブルが辞め、ドラムも辞め僕は崩壊していった。でも、ライブは時々行っていたし、レコードも買っていた。とにかくお金がなかったし、実家にいったのだが、郊外のため街へ行くにもお金がいる。近所でバイトや日雇いも行ったがむかなかったり、交通費が給料の1/4かかったり、長続きせずたまにばっくれて関東や関西へ逃げたこともあった(笑)ようやく冷蔵倉庫の深夜肉体労働を始めてから、遊べるようになるが、大学は1年間さぼった。このころにバンドも崩壊し、ギターをしまって目標を失った僕は再び2年生なのに1年生と授業を受ける。(その後4年まで続く) このぐらいは、20歳で彼女も居ないし、職場で酒とたばこに更にはまり、編みこみのドレッドにしていたりたまにモヒカンにしていた。(特に意味はなかった)大学へは、登校していたが、授業がない時間は、ほとんど車でぶらぶらしていたり、レコード屋へ行ったりして今考えると何やってんだと思う。当時は若かったので目標を失うと気分が落ちて復帰するまでに時間がかかった。そんなときに中園君がバンドやろうと声をかけてくれた。あれは、救いだった。しかし、中園くんは、当時ボウフラと回天と1000travels of jawaharlalのヘルプをしており、多忙のためこのバンドは、1回のスタジオでボツとなる。(その後中園くん行方不明、1000travels of jawaharlalの名曲・「君へ」がうまれる)再び暇になった僕は、そのぐらいにユタカ氏からバンドの誘いを受ける。自分がやる気を出すとバンドは、つぶれるからちょうど掛け持ちしている人とやるぐらいがちょうどよいと思い、全てユタカ君に任せた。他のメンバー選出もユタカ氏がするとのことだった。誰を誘うのか聞いたところ、9holdのドラマーとテッポーシンのギターとのことだった。おれは、たまげた。9holdといえば、当時福岡でも指折りのドラムをたたく人と噂を聞いていたし、テッポーシンは観たことあったけど、とても音楽性が合うと思えなかった…やばいなと思いギターを再び触りだした。しかし、おれは下手だった(笑)スタジオが決まったので、スタジオへ向かった。当時、頻繁に入っていたYABANでなくマジックスタジオという中洲川端にあるスタジオとのこと。まだ20歳の僕は、行ったことがないスタジオへむかった。このスタジオがstrange over the sunの結成につながるのです。(まだパワーコードしか弾けません)

※写真とかあったら面白いけどこのころの写真が全くない。

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