水曜日

140226

あっという間に2月も終わり。マジでさる2月。先週末に大阪へ。ライブ以外で大阪の街を歩いたのは、14年ぶり。全く時間がなかったが、刺激的だった。TONE DEAFのボーカリスト・ツージー君の結婚パーティーへ。土曜の昼間に出発。前々日に胃腸炎が再発してやばかったがなんとか行けた。飛行機から大阪の街へ。宿泊地は、西成。初めて訪れた場所だったけど、衝撃度が大きかった。また、行きたい。結婚パーティーは、梅田。ここも初めて訪れた。人が多かった。THE ACT WE ACTのメンバーと再会し、その後結婚パーティーへ。たくさんの人が来ていたので、今回の主役ツージーくんとは、5分ぐらいしか話せなかった。昔からしるバンドマンとばかり話した。そして、知らぬ間に酔っぱらい、徳島勢を見送り、電車に乗って帰りの記憶はおぼろげ。早朝起床、朝の西成は、プサンのようだった。チェックアウトして大阪城へ。そして、仁徳天皇陵、百舌鳥でお好み焼きやたこ焼き食って、関空へ。バタバタと福岡へ帰ってきた。時間が無さ過ぎた。どこの土地へ行っても思うが、時間が足りない。こうしてまた思考停止が半日ほど続く生活へ戻った。インスパイアされたことがあれば、何かしら自己表現したい。

日曜日

140216

 3月が別れの月とよく言うが、それはカレンダー通りに動いている組織等であればそうかもしれんが、末端で生きる自分としては、2月が多いと思う。3月は、もう出て行っている。テレビをつける習慣が戻ってきていたので、どこかでちらっと見た本の文章に集中できない場合は、テレビを消すべしと書いてあった。最近、実行し始めた。自宅にいると何にしても無気力になってしまう時間が増えていたので、なぜこんなにも無気力になるのか、考えていたがどうやらテレビの音らしい。一人で生活していると音がないと辛いがかといって音楽を聴く時間がない朝などにテレビをついつけてしまう癖が帰宅してからもあったので、朝以外はつけることを極力控えた。あとは、集中力の問題。うまいこと言葉を思い付かないので、しばらくブログ投稿を続けようと思います。しっかし、見返しても面白いことかけてないな!

3/15に PFKのイベントであるTRENDKILLにsnarekillsnationでライブをする。PFKは、嵐を呼ぶ男で知られる長崎出身のスケーター・ホンダ氏の名物イベント(僕はそう思う)気がつけば結構長いことやっているイベントだ。彼は、高校生の時から時々長崎から福岡にでてきては、フリーペーパーを作成したり、バンドしたり、スケートしていたそうな。今はないヘルズキッチンの店長から長崎のジャームスという異名をもつ存在として、自分に紹介されていた。実際、会う機会がなく、話だしたのは、何かのライブで話したのがきっかけだったと思う。スケーターなのにやたら海外のパンクシーンに詳しく、ハードコアもきけばポストロック、ノイズの音楽も詳しい、衝撃的な人でした。そのころは、長崎から福岡へホンダ氏は、自分が住んでいた家の近所だったので、家へ遊びに行ったらまあ衝撃的な部屋で、改めて色々な音楽を教えてもらい、あの自由奔放さや音楽の楽しみ方を教えてくれた。この出会いがなかったらおれバンドやってない(笑)バンドを辞めたくてしょうがないころに出会ったから。その頃ぐらいにtest mustard discoを始めて、strange over the sunが解散して、生活は崩壊気味だったけど、逆に音楽が楽しくなった。たまにホンダ氏にスタジオに呼ばれてセッションしたり、セッションライブしたりと非常に面白い時期だった。いつしか、ホンダ氏も結婚や就職で多忙になり、数年会うことがなくなった。その期間に自分は、バンド活動の最盛期を迎えてすげー忙しかった。落ち着いたころにホンダ氏から連絡があり、 TRENDKILL復活とスケートパークをつくるんだということを聞いた。相変わらずぶったまげる行動力だ。いつしかスケートパークを仲間と作り上げ、ノイズやハードコアバンドで活動を再開していた。おれは、うれしかった。彼は、マジでただもんじゃないし、彼が行うイベントは、センスがありすぎて福岡の人はついていてけてない。でも、定期的にイベントは、続けている。とてもリスペクトしている。おまけに去年は、一緒にインストバンドを始めて数年ぶりにスタジオで合わせたけど、不思議と合わせやすいし、なんとなくイメージしている音楽が伝わる。やっぱセンスがいいんだよな~ TRENDKILLは、通常スタジオや野外、特殊なスペースが多かったけど、いよいよ今回は、Kieth Flackで大きく行う。snarekillsnationが誘われたけど、条件が北九州で活動する斜陽とセッション形式で行ってくれとのこと(笑)急すぎたので合体することにしました。そんな素敵なブチ切れたイベントなので是非お越しを!僕らもこのライブ以降は、しばらく地下へこもります。曲作りや活動を今後どうすべきか鍛錬するつもりです。更なる完成度を高めるために。

PFK PRESENTS"TRENDKILL"
at Kieth Flack
2014/3/15(sat)
OPEN 19:00 / START19:30
TICKET ¥2000+1DRINK ORDER
[LIVE]
AYAME(大阪)
1z3
XL FITS
INVISIBLEMAN
snarekillsnation
hurricane grind feat psycho dog and hamasu
[DJ]
DJ Sexyfood(大阪)
goto
kenzo
S.A.K
ポッポコピー
[ART]
大柴裕介(東京)
DISKAH(東京)
イトー(東京)
小宮匠(東京)
JAHI(神奈川)
秋葉慎一郎(大阪)
大西大(大阪)
河村彰彦(大阪)
林芽々人(大阪)
ヨコウチフミヒコ(大阪)
POP●COPY
S.A.K
1z3
PFK HONDA
Amitabha tattoo/TOMI&SATO
ヤマモトキョウスケ

土曜日

140215

最近、リハビリのためにブログ投稿を心がけている。今の環境だったら一日の半分は、1つのことにしか頭が使えないので、帰宅すると何も考えたくなくなるからだ。今の労働は、時間内では他のことを考える余地がない。終わった後は、力尽きてる。まあそれはいいとして、先週のライブで打ち上げもなかったので、なんとなく打ちあがりたかった自分は、昨夜ライブ鑑賞や呑みに出かけた。健康診断もあったので、終わった後の解放感が半端じゃなかったため、調子にのって呑みすぎた。そこまで呑んでないつもりだったが、本日二日酔いダメージが半端じゃなくうなだれていたが、昨夜は良い刺激と改めてソロで活動する人達のすごさに感動した。でも、ただの酔っぱらいおじさんだったかもしれない。噂の森脇ひとみを観たがよかった。オオクボ-Tさんも相変わらず良かった。ミワさんも良かった。文句のつけようがないライブだった。4年前ぐらいからソロやるつもりでいたが全く進んでない自分…今年こそはと思ってます。面白い文章は、なかなか難しいな。

来週は、大阪へTONE DEAFのツージー君の結婚パーティーへ出席するため、数十年ぶりに大阪の街をゆっくりと歩けそうです。今までライブで行ってもバタバタしていたので、時間の許す限りやっぱり史跡みるんだと思います。最近は、すっかり散歩おじさんですわ。

金曜日

140214

1999-2000

このぐらいは、自分のとっては折れ線グラフでいうとかなり下がり目の時期だ。年齢にして19-20なのだが、いい思い出があまりない。定期的にライブへ行くようになり、1000travels of jawaharlalやボウフラのドラマーだった中園くんとの出会いやimomushi records会長であるユタカ氏からバンドの誘いを受けた時期だったが、最初のころのはどちらかというと大学へ行ってしまい、なじめない環境で苦悩していた。同時にSNAREKILLSのバブルを誘ってバンド組んだが当時の自分の性格(今もかも)が悪かったのか、2回ライブの後にバブルが辞め、ドラムも辞め僕は崩壊していった。でも、ライブは時々行っていたし、レコードも買っていた。とにかくお金がなかったし、実家にいったのだが、郊外のため街へ行くにもお金がいる。近所でバイトや日雇いも行ったがむかなかったり、交通費が給料の1/4かかったり、長続きせずたまにばっくれて関東や関西へ逃げたこともあった(笑)ようやく冷蔵倉庫の深夜肉体労働を始めてから、遊べるようになるが、大学は1年間さぼった。このころにバンドも崩壊し、ギターをしまって目標を失った僕は再び2年生なのに1年生と授業を受ける。(その後4年まで続く) このぐらいは、20歳で彼女も居ないし、職場で酒とたばこに更にはまり、編みこみのドレッドにしていたりたまにモヒカンにしていた。(特に意味はなかった)大学へは、登校していたが、授業がない時間は、ほとんど車でぶらぶらしていたり、レコード屋へ行ったりして今考えると何やってんだと思う。当時は若かったので目標を失うと気分が落ちて復帰するまでに時間がかかった。そんなときに中園君がバンドやろうと声をかけてくれた。あれは、救いだった。しかし、中園くんは、当時ボウフラと回天と1000travels of jawaharlalのヘルプをしており、多忙のためこのバンドは、1回のスタジオでボツとなる。(その後中園くん行方不明、1000travels of jawaharlalの名曲・「君へ」がうまれる)再び暇になった僕は、そのぐらいにユタカ氏からバンドの誘いを受ける。自分がやる気を出すとバンドは、つぶれるからちょうど掛け持ちしている人とやるぐらいがちょうどよいと思い、全てユタカ君に任せた。他のメンバー選出もユタカ氏がするとのことだった。誰を誘うのか聞いたところ、9holdのドラマーとテッポーシンのギターとのことだった。おれは、たまげた。9holdといえば、当時福岡でも指折りのドラムをたたく人と噂を聞いていたし、テッポーシンは観たことあったけど、とても音楽性が合うと思えなかった…やばいなと思いギターを再び触りだした。しかし、おれは下手だった(笑)スタジオが決まったので、スタジオへ向かった。当時、頻繁に入っていたYABANでなくマジックスタジオという中洲川端にあるスタジオとのこと。まだ20歳の僕は、行ったことがないスタジオへむかった。このスタジオがstrange over the sunの結成につながるのです。(まだパワーコードしか弾けません)

※写真とかあったら面白いけどこのころの写真が全くない。

火曜日

140211

2/9の企画が終わりました。このライブが決まっていながらメンバーが抜けたり、入れたりで大変だったけど、なんとかライブもできたし、ミミレミミ, threadyarn, forget me notの3バンドレコ発を福岡で行えたので、一段落つきました。オープニングでimomushi records会長・ユタカ氏の熱いアコースティックライブもよかったし、SHE SAYS distroの出店、出張たこ焼き・タコヘル、まさかのstrange over the yarnとして、数年ぶりに昔の曲を歌ったり、現場に居ないとやっぱりわからないことってありますね。僕は、前日から夜、朝とスタジオ、そして会場入って準備、チケット受付、ライブ、片づけに追われていたので、やっと一段落ついてお酒が呑めたのは日付が変わったころ。数年ぶりの企画は、やっぱり大変でした。でも、全体が楽しければいいのです!しかし、ミミレミミ, threadyarn, forget me notのライブは、全部観れなかったけど、レベル高かったな。よう刺激を受けました。音源だしてツアーやってるバンドは、やっぱ違う。曲作りを更に深めたいところです。snarekillsnationになってからありがたいことに聴きやすくなった(笑)とよく言われます。今まで曲が高速すぎたり複雑だったんだなと思いました。作り方は、あんまり変わってないです。尺が長くなり、ベースがいないので、そんなに弾けないため音を抜くことに力をいれてますけど、まだまだ音数が多い。もう少しボーカルの精度や上に乗っかる音を決ないといけない。だから楽しいっす。では、次に進みます。

 2/9のライブ会場に居た皆さまへ感謝。

金曜日

140207

急に現在に戻りますけど、最近どんどん昔の記憶が消えていっているので、ほぼ忘れないためだけの記録残してました。

しつこいですけど、2/9はライブです。3/15にsnarekillsnationに斜陽が合体してライブします。その後は、進路未定。しばらくはライブしないと思います。 辞めるわけではないけど、ペースや活動が変わると思います。ダラダラとやっていてもしょうがないので喝いれます。世の中も不穏だし。

2014/02/09(sun)
at 福岡薬院UTERO
OP 19:00 / ST 19:30
TICKET adv ¥1,500 / day¥1,800(共に+1drink order)
※前売は30枚のみで要メール予約(info@imomushi.jp)
[LIVE]
threadyarn
forget me not
ミミレミミ
snarekillsnation
[SHOP]
SHE SAYS distro
[INFO]
imomushi records
info@imomushi.jp
http://www.imomushi.jp

UTERO
http://www.utero.jp
info@utero.jp

PFK PRESENTS"TRENDKILL"
at Kieth Flack
2014/3/15(sat)
OPEN 19:00 / START19:30
TICKET ¥2000+1DRINK ORDER
[LIVE]
AYAME(大阪)
1z3
XL FITS
INVISIBLEMAN
snarekillsnation
hurricane grind feat psycho dog and hamasu
[DJ]
DJ Sexyfood(大阪)
goto
kenzo
S.A.K
ポッポコピー
[ART]
大柴裕介(東京)
DISKAH(東京)
イトー(東京)
小宮匠(東京)
JAHI(神奈川)
秋葉慎一郎(大阪)
大西大(大阪)
河村彰彦(大阪)
林芽々人(大阪)
ヨコウチフミヒコ(大阪)
POP●COPY
S.A.K
1z3
PFK HONDA
Amitabha tattoo/TOMI&SATO
ヤマモトキョウスケ


月曜日

140203

1995-1996 15歳ぐらいの1年は散々な記憶しかない。高校へ進学すると世界が変わった。自分の地元がいかに田舎だということと面白い人が周りにいなかったんだと痛感させられた。高校1年の時に何を血迷ったかソフトテニス部に入った。理由は、自由で先輩との上下関係が薄く更にバンドをしている先輩が多かった。その縁で先輩のバンドでギターを弾くことになった。(パワーコードしか弾けない)おかげでスタジオのコニュニケーションなんかが非常に勉強になった記憶がある。カバーは、オアシスだったけど(笑)記憶があいまいだけど、平衡して多分、メロコアのコピーバンドを始めたのもこの時期、高2になっていたかな。同じクラスに学年1ギターがうまいと言われたやつが後ろの席にいた。彼は、授業中寝てるし普段の動きもとろく、ビュジュアル系好きの天パでメガネ、ガリガリと外見からとてもギターが弾けるとは思えなかったが、ちょうど帰る方向が一緒で仲良くなり、何かのきっかけでギターを弾いている場面をみた。驚愕した…今まで身近にみたギター弾きで断トツうまかったし、なんせアコギもエレキも関係なくうまい。聴くと小学生のころからギターだけを弾いて育ったとか。自信喪失したと同時にとにかく盗めるところは盗もうと思った。ライブもすでに中学生のころからしており、宅録の知識もすぐれていたためデモテープをつくっていた。デモテープをもらって家で聴くとなんと1曲目の曲名は、「畜生」(笑)サウンドは、初期Xからの影響が強かったので、ハードコアメタルの要素を含んだサウンドで、ボーカルは、ドスが聴いていたり、ビジュアル系だった今にして思えば面白かった。彼はこの10年後にSNAREKILLSでベーシストになるバブル氏。当時 からギターがずば抜けてうまかった。でも、変な人だった(笑)仲良くなって仲良く坊主頭にしてました。おれのとばっちりで停学にもなって当時から迷惑かけてばかりだったな… このころに平衡してメロコアのコピーバンドをエクスプロージョンズのベースと始めた。まあ、おれのギターサウンドは、全部フルテンだったので、シャーシャー鳴らしてたけど。ライブがしたくてしょうがなかったので、当時中学の同級生とバンドを組んでライブをしていたバブル氏にライブハウスのブッキングを頼んだら。すぐにOKがでた。ハートビートの昼間の部だったなあ。おれ、張り切ってモヒカンにしたっけ(笑)なぜか2マンのライブで、客が暴走族と僕らの友達っていう不思議なライブだった。暴走族の皆さまと一緒に集合写真撮った記憶があるけどあの写真だれかもってねえかな。 初ライブが終わり、更にバンドしたくなったおれは、数回のバイトでなんとかギブソンのレスポールを手にいれた。あの時はうれしかったな…今にして思えば若干、楽器店のオヤジにぼったくられたけど(笑)後年、大活躍してくれるレスポールで今は、使ってないけど大事に持ってます。1回、家でネックごとへしおれたりしたけど。 このころは、本当に出会いが多く刺激が強かった。十代のころは、本当に吸収力があったけど、同時にお金もなかった。レコードやCDがようやく定期的に買えるようになるまで時間がかかったし、当時ネットも普及していないから街出るまでのの交通費でレコードやCD買えたよ。都市部の同級生がうらやましかった。だいぶん経って自分の実家に友達が来た時には、こんな田舎に住んでたのかとびっくりされたな。 話がそれたけどその後、上級生を送る会でひんしゅくをかうコピーバンドしたり、定期的にコピーバンドしたり、モンキー乗りまわしたり、朝まで遊んだり普通の高校生活が終わって、偶然受かった大学へ進学。進学志望だしてなかったけど、社会がクラストップだったので、みんな勉強してて暇だったから受けたら受かってしまった。卒業後、オリジナルのバンドしてやると意気込んで高校卒業。唯一の後悔は、女子が多い高校だったのにもう少し色々な女の子にアタックすればよかった。他校の生徒がいる合コンばっか行ってた…

土曜日

140202

1996年始

中3の受験シーズン。とにかく自由を奪われた学校生活からの脱出をはかるため自由の権利がある程度優遇されている高校へ進学を希望した。担任からは、軍隊規律の高校を受験するよう勧められたが、大いに拒否。公立学校に落ちたらフリーターになるつもりだった。希望高へ受験前に見学する仕組みがあって見学へいった。見学当日に同じクラスのやつ(ワキガ)と一緒に見学へいった。(辛かった)一緒にいったやつ(ワキガ)の塾の友人と会った。そいつは、隣の中学でギターがうまいということで紹介され、後日ワキガとギターがうまいやつの家に遊びに行った。そいつの部屋は、ドラムセットがありアンプがあり、演奏ができる環境だった。ギターをお飾りにしていた自分にとて衝撃だった。自分の目の前でセッションを始めて衝撃だった。ギターソロを生で観たのが初めての瞬間。おれは、こいつにどうにかして勝ちたいと思った。ギターがろくに弾けないのに…平衡して洋楽をおれは聴き始めていた。BOOWYやBUCK-TICKにどっぷりつかっていたおれをエアロスミス、ガンズアンドローゼス、セックスピストルズ、ニルバーナ、NOFX、グリーンデイが世界感を変えた。そんな中、志望校へ受かり自由を手に入れた。高校受かって同じクラスにワキガと隣の中学でギターがうまいやつ(現在某企業社長)と福岡のレゲエバンド、エクスプロージョンズのベース がいた。エクスプロージョンズのベースとの出会いが自分のさらなる飛躍を生んだ。やつとの出会いは大きい。高校へ入学してからは、音楽がさかんな学校だったので、バンドを組むことができたし、このころからライブへ足を運ぶようになった。現在でも福岡で活動する先輩方のライブを福岡の郊外山間部からなけなしの金でライブへ足を運ぶようになった。高校1年では、まだ遊び程度のギターしか弾いてなかった。3学期ぐらいからエクスプロージョンズのベースとバンドをしようという話で宅録を開始した。今にして思えばくだらない8ビートの曲をギターとベースだけでラジカセに録音してつくっていた。恥ずかしい過去だが今はその音源を聴きたい。高校2年になり衝撃の出会いが待っていた…

140201

1992年末

紅白歌合戦に初出場したXを観て興奮した当時小学5年生。福岡郊外の辺鄙な山間部の片田舎で育った僕が、親にねだってシングルCDを初めて買ったのは、ドリカムのgo for itだったが、その直後にXみて興奮した。それがバンドに対する興味の始まりだった。当時、中学2年生の思春期まっしぐらの従兄の影響も大きかった。ソフトボールチームで断トツの補欠扱いを受け、学校もつまらないからさぼりたくてしょうがない気持ちていっぱいだった当時、今思えば音楽が救いでした。そうこうしていると小6の一年間が終わり、中学生になった。地獄のような厳しい公立中学へ入り、自由が一切ない管理体制の生活が始まった。全くいい思い出がない。野球部に入るもまたも断トツの補欠以下扱いを受けて、途中でさぼり癖がついた。ぐれている友達がいたため、色々とトラブルに巻き込まれ謹慎も受けたし、先生からは見下されるし、なんかいい思い出ない。でもギターへ興味がわいた。何人かの友人もビジュアル系のバンドが好きだったため、みんなで楽器を始めようと盛り上がったがギターを買ったのはおれだけだった…みんなボーカルしたいとさ…更に学校の方針で器楽の授業やクラブが廃止され、全くもって弦楽器に触れる機会もないため、ギターの話をできる人が田舎にはいなかった。すでに高校生でライブをしていた従兄がいたため、なんとか興味を維持できたが、持続力のない性格の故か初心者用ギターを購入するも飾りにしてしまっていた自分もいた。そのままゴミになるところだったが中3の冬に転機が訪れた。おかげで33にして未だにバンドをやろうしてます…